世界で一番に売れている本「聖書」に書かれている内容です。
聖書:マタイ伝 第9章 29節からのぉ~・・・!
「そして信じるが如くあなたになされる」
と、あります。
これはあなたの願望をすべてが具現化、実現されていくことのできる強力な言葉です。
この実現できるチカラが自分の中にあることを知ることをするだけで、あなたが「自信」と「幸福感」を得ることができるということです。
ちょっと抽象的で分かりずらいでしょうか?
解釈をしますね。
「そして信じるが如くあなたになされる」 ですが、
ここの 信じる とありますが、 これは 頑張る とは違います。
とうぜん言葉も全く違います。
試しに「頑張る」に読み替えてみますね。
読み替え→「そして頑張るが如くあなたになされる」
ぜんぜん意味が変わっていることに気が付きますね。
そうなんです。潜在意識とか、自己イメージとか、聖書で伝えたいことはこういうことです。
「頑張る」事をした結果、→あなたの願望が叶う ということではないのです。
念入りに繰り返しますが、
「 そして信じるが如くあなたになされる 」
のです。
これは、
うんうんと、頑張って頑張って、祈って祈って、願って願って、努力して努力して、から成したいことが成されるわけではありません。字のごとくです。
ですが、気の毒なほど「頑張って」いらっしゃるかたが周りにいませんか?
僕の身近にはいます。ぶっちゃけ、僕のクリスチャン家族です。
もっとぶっちゃけると過去の僕自身の姿でもあります。( ´∀` )ゲラゲラ!
僕自身がオニ強迫神経症だったし(過去形ですよ)、家族も父以外は現在進行形の強迫神経症です。
姉はほぼアスペルガーです。自分の発言を受け止めてほしい気持ちが芯にありすぎて「三白眼」がデフォルトとなっています。これは陰口ではありません。ほぼしっかり僕が姉に直接発して、抵抗している日常です( ´∀` )わら・・・えるよね?
以下▼ちょっと姉ディスりです。
神様(GOD)を崇拝して、信じる者は天国へ行けるという洗礼を受けた姉は、僕と僕の家庭が洗礼を受けていないため、地獄へ落ちていくという恐怖をガチで信じている信者となっています。(ものすごい迷惑行為ですが、家族なので10000歩くらい譲っています。)
彼女の言いたいことはこういうことです▼
「今なら(生きている間限定)特別に洗礼を受けた方には「天国行き」のチケットが与えられますよ~。死んでからでは手遅れなのでぜひお早めにご入会を~。」的な限定商品化されてしまった「天国」ツアーのようです。
言い換えると、
「申し込みの手続き(洗礼)が遅れた方にはもれなく「地獄行き」へのツアーがありますので申込期間についてはおきをつきください~。」っていう風にも聞こえてきます。
ひねくれすぎでしょうか。( ´∀` )
さて、害虫としか思えなかった僕のアスペシスターもこのように▲イジることで僕の中で安らかな笑いが起きるので害だけとは言えなくなりました。

話がかなりそれ過ぎましたが、もとに戻したいです。
「信じる」ということなんですが、
信じることができるので、当たり前となって疑いの余地がないことかと思います。
(たぶん、盲信もふくまれます。)
それが当然の風景として視界に映り、ないことが不自然なように振る舞える様子はもはや、「信じる」ことができている状態、いや、「信じている」状態と言えると思えます。
認識できることが当然で、意識的に「信じている」のではなくて、無意識的に空気のように当然というような認識が「信じる」かと思います。
自分の意識でコントロールが可能な「意識」と「無意識」なのでそのコントロールの手法を知れば、「信じるが如くあなたになされる」とあるので、
「信じる」行為を無意識的に確立することで、私に誰か(他者か、神様か、無意識か、)が成してくれる」
という内容なのだと思いますね。
つまり、いろんな自己イメージや、潜在意識等のキモとなるのがここなのです▲。
うんうんと、汗水流して(時には血も流して)頑張っている姿は美徳として尊くとらえらがちですが、実はそうではなく、
すでに達成されているあり様のイメージの確立をせよということが、「なされる」ための前提条件なのだと言えそうです。
ここまでわかればあとはイメージトレーニングとか、実体化するまで脳みそにイメージの固着化を励むだけです。
記憶に定着化させることから始めると進めやすいので、朝と夜の起床後・就寝前に約5分程でいいので、信じたいイメージをリラックスして全集中させるだけです。
このページを読んでいただいたかたの今後が良いイメージで社会への貢献となることを期待して、僕もぐっすり眠ることにします。

最後に、余談ですが。
仏教の開祖ゴータマ・シッダールタ 「ブッダ」のおっしゃったことにもありましたけど、
命を落とすくらいイタく、心もカラダもツラい修行の果てに、他では得難い奇跡的な会得があるわけではないということです。
カラダが病気になったり、老いていって思考もカラダも重くなったとしても、虐待を受けた子供でも、他者を気遣い、他者を思いやれるくらいの心のゆとりがある幸福感を人間にはみんな備わっていることを知ってほしいということを教えたかったのだと思います。
イエス様も同様のことをおっしゃっていたようです。
願掛けによるものを奇跡とせず、「信じる」行為に奇跡が宿る。
教えの舞台や時代は違っても、苦しむ者への対応と、救いを与えたいという行為はとても共通することが多いお方ですね。
イスラムの開祖アブラハムや、ブッダ、イエスが同じ時代に生きていて、そして出会っていたら、お互いに尊重できて、カタい握手をしていたと思います。
人間も神様と同じような性質を持って、同じように作られたのならば、宗教とかいう属性で分けあう差別もなくなるんだろうなぁ。って思えますし、そうなることを願っています。
ただ、心の狭い僕はこれからも姉ディスりは続けそうです。
( ´∀` )ぷひゃひゃひゃ・・・!